弱さ、ばんざい!

「・・・私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう・・・なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」
(コリント人への手紙第二12:9-10)
ここで、この手紙の著者パウロは、「弱さばんざい」と叫んでいるのです。
神の恵み、その祝福は、水が必ず低い所へと流れ注ぐように、弱くなりきり、低くなりきった魂に注ぎこむからです。
私たちは、「神さまなど要らない。私には何でもできる」とか、少なくとも「自分のことはみんな自分でできる」と考えます。しかし実際にそうでしょうか。神を離れた人間の、被造物(造られたもの)としての弱さを見つめてみてください。
脳性マヒ、てんかん、筋ジストロフィーの三重の苦悩を背負ってベッドに寝たきりの岡井久子さんは、病の中で、徹底的に被造物の弱さを味わい知り、こんな詩が生まれました。

つつましやかなききょう  あでやかに咲く花あやめ
清純な白百合  女学生の様なマーガレット
かわいいカーネーション  お姫様のような紅バラ
人を恋う宵待草  たのしい想いの中に  私をさそいこんでゆく
花も私も 創られたもの

この詩の美しさは、イエス・キリストのこんな言葉を思い出させます。
「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」(マタイの福音書6:28-30:)

深い井戸の底からは、昼間でも星が見えるそうですね。岡井久子さんは被造物の弱さのどん底で、神を、その愛と力となぐさめを見い出すことができたのです。

こうして字が書けること  こうして食事ができること
たとえ首をどんなにまげても  どんなにぶざまなかっこうをしても
自分の手でできるということ  それがどんなにうれしいことか
この喜びも幸せも  自分の力で作り出したものではない
私という  こわれた  誰も見むきもしない器に
注がれた神の愛の御業によって  こうして字を書き食事が出来るのだ
ああ  神は在したもう  
ハレルヤ  唯神の御名をあがむのみ
(詩集『ヨブの涙』p52)

人間の弱さのもうひとつは「罪人の弱さ」ではないでしょうか。
イエス・キリストのなさった「放蕩息子」の話しをご存じでしょうか。
慈愛深い父親から無理やりに財産を先取りし、田舎から都会に出た息子。遊興に明け暮れて湯水のようにお金を使い果たし、豚飼いの手伝いとなって、豚の食べ物を食べたいと思うほど落ちぶれました。金もなく、友も去り、健康を失い、希望を失った転落のそこで彼はのろいました。「俺はばかだった。だけどあの男が悪かったのだ。あの女にだまされたのだ。お父さんが俺を止めなかったのがそもそも悪かったのだ」
しかしこの放蕩息子は、弱さのどん底で、自分の罪に気がついたのです。だれが悪いのでもない、この自分こそが罪人だとわかった時、かれの魂に変化が起こりました。
彼は立ち上がり、故郷をめざして歩きだし、父のもとに帰って、こう言いました。「お父さん、私が悪かったのです。天の神さまにも罪を犯しました」
父は走りより、首を抱き、接吻してくれました。父は赦し、受け入れ、新しい衣をきせ、新しい靴をはかせ、指には相続人のしるしの指輪をはめてくれました。
彼が罪の弱さのどん底に立った時、はじめて父の愛と真実にふれ、魂のふるさとに帰ることができたのです。

あなたにとっても、私にとっても、弱く低くなりきること、罪人のかしらになりきること、これがキリストの救いを見い出し、神の愛のふところに帰る秘訣なのです。

「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」
(ローマ人への手紙5:20)