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あなたの心は「広い心」でしょうか。それとも「せまい心」でしょうか。
広い世間をせまくして渡る、という言葉がありますが、私たちがせまい心で生きると、神さまが造られた、この広大無辺な広い世界を、せまく不自由にして過ごさなければなりませんね。広い心とはどんな心かを知るために、まず「せまい心」とはいったいどんな心かを考えてみましょう。
○劣等感でせまくなった心
私の友人で、マッサージ・鍼・灸の名人がいます。彼女はおじいさんから背負わされた悪い病気のため、子どもの頃から、手は曲がり、顔中ケロイド状、その上、耳も目も悪かったのです。彼女は自分の醜さをを恥じ、祖父を呪いました。いつの間にか、彼女は心をかたく閉ざし、人を受け入れない、孤独なひねくれ者になってしまったのです。そればかりか、彼女は、自分自身をも素直に受け取ることができない、せまい心の持ち主になっていたのです。「私のようなものは、誰も愛してもくれないし、みとめてもくれないんだ」
彼女は自分自身を嫌悪し、呪いました。彼女は、人目を避けるようにマッサージ師の所に弟子入りしたのですが、その主人も、彼女をまるで価値なき者のごとく、無給・無休で13年間こき使いました。そんな彼女が、ある時、近所で開かれたキリスト教の集会に出てみました。期待も持たず、人目を忍んで入った天幕。そこで、生まれて初めて
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた・・・私はその罪人のかしらです。」(テモテへの手紙第一1:15)
という聖書の言葉をききました。
こんなみにくい罪人の私まで、神さまは愛してくださるんだ----彼女は、清水の舞台から飛び下りるように、勇気を出してキリストさまの胸をめがけて飛び込んだのです。すると不思議なことが起こりました。今までの卑屈な心が消え去り、ありのままの自分を受け入れられるようになり、他の人を素直に受け入れられるようになりました。すると、他の人も彼女を受け入れはじめたのです。彼女は、今では人に拝まれるくらいの鍼灸マッサージの名手として、明るく生活をしているのです。
○エゴイズムでせまくなった心
使徒パウロは、コリントの町の人々に手紙を書き送って、こう言いました。
「あなた方は、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(コリント人への手紙第二6:12)
ある大きなアパートで子どもたちが遊んでいましたが、そのうちの一人がエレベータを独占して他の子を乗せません。乗せてくれとせがむのを、突き飛ばし、彼は、その狭いエレベータをひとりで運転して、昇ったり降りたりしていました。やがて他の子どもたちは、屋上に上ってワイワイ遊び始めました。しかし、その子はエレベータを守るために、外へ出られませんでした。暗い竪穴を、ただ上がったり下ったりしていたのです。
これこそ、エゴイズムでせまくなった心の絵ではないでしょうか。私たち人間は、罪(エゴイズム)で心を狭くし、神さまの造られた素晴らしい広い世界を、お互いにゴツンゴツンぶつかりながらの、つまらない生き方をしているのです。
あなたの心を開いて、神さまを迎え入れてごらんなさい。全世界の祝福、全世界の美しさをつつみこむような、広い、ゆったりした心になるのです。
「神は・・・海辺の砂浜のように広い心をも与えられた」(列王記第一4:29:)
○広い心
広い心は、第一に、人をゆるし受け入れる心です。
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
(コロサイ人への手紙3:13)
海がどんな泥水をも受け入れて浄化するように、キリストにゆるされた心は、広い心となるのです。
第二に、広い心は、人をもてなし、人を世話する気前のいい心です。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(ヨハネの手紙第一3:16)
私たちのご近所に、ご自分の事業は火の車なのに、いつも困った人たちをあずかり、人々をもてなし、笑い声の絶えないクリスチャン・ホームがあります。うらやましい楽しい家庭です。その奥義は?
この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
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