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イエス・キリストは、ご自分のことを、こう言われました。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」
(マルコの福音書10:45)
十字架の上で、彼はこの言葉通り実行されました。そして、イースター(よみがえり)の朝、この事は実証されました。私は16歳の時以来、この言葉の示す「救いの偉大さ」に圧倒され続けてまいりました。
それは第一に私の犯してきた<罪のおぞましさ>を考えてみるとわかります。
「誰に教えられもしないのに、私たちは、幼い時、我がままの限りをつくし、嘘をつき、盗み・・・大人になり、老人になって私たちは白い衣を着るようになったか。否、私たちの“人生の衣”は、血まみれ泥まみれです」(スポルジョン)
私たちが密室で考え行なうことは、口にするだけでも恥ずかしいことです。
でも、十字架の上で流されたイエス・キリストの血は、すべての罪をきよめ、雪よりも白くしてくださるのです。
また、第二に、罪に対する神の<さばきのきびしさ>を考えると、イエス・キリストの救いの偉大さがわかります。
神を侮ってはいけません。最後のさばきの日、すべての隠れた罪、罪深い動機、自覚しない罪までさばかれます。その時は、やり直しも、ごめんなさいもきかない。その恥、呵責、断絶、痛苦は、まさに死です、地獄です。
あるチンピラヤクザが、老人に、あわやという交通事故から助けられました。
彼は「老いぼれ、お節介やくな」と捨てぜりふをあびせかけました。ところが、あとで彼が重大犯罪を犯して裁かれた時の裁判長が、その老人だったのです。
「また助けてください。裁判長さま」
もちろんダメでした。
神の裁きはファイナルです。それなのに、十字架の上でイエス・キリストが死なれたのは、私たちの代わりに私たちのすべての罪を負い、神のファイナルな罪の裁きを完全に受け切ってくださったことなのです。私たちの全ての罪をゆるし、裁きを取り去り、過去・現在・未来にわたって私たちを無罪と宣言し、神の子として守り、導き、育てて、天国まで連れていってくださるのです。
さらに、神が私たちを救うために<払われた代価>を考えると、救いの偉大さがわかります。
少年時代、私は、神仏なんて天上の高い所で腕組みをしていて、僕の苦しみや悩みになんて知らん顔だと考えていました。
違うんです。神様ご自身が身をかがめて、この罪の世におりて来て、ご自身の罪の無いいのちを投げ出し、その十字架の死によって、私たちを罪と死から救ってくださったのです。
さらに<救いの祝福の大きさ>を考えると、イエス・キリストの救いの偉大さをひしひしと覚えるのです。
(1)罪とさばきから救われました。
(2)新しい永遠のいのちを与えられました。
(3)人生のほんとうの使命、生き甲斐を知らされ、力強く生きられるようにされました。
(4)新しい、互いに祈りあい重荷を担いあって生きる仲間も与えられました。
(5)天国も私たちのものです。ただ悔い改めて信じただけなのに。
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