いじめに思う

 クラスメートにいじめられて、はるばる盛岡まで行って首をつって死んだ中学生がいました。なんてひどい、かわいそうに・・・と、多くの人と共に義憤を感じつつ同情しました。しかし私がひそかに思うことがあります。それは、私もいじめの一人では?という思いです。
 友人の牧師からこんな話を聞きました。
深夜、電話がかかってきました。「牧師先生ですね。こんな遅くすみません。でもちょっと話を聞いていただきたいんです。」娘さんの声でした。彼女は両親に望まれずに生まれ、里子に出され、たらい回し。ティーンエイジャーの頃はツッパリの悪ガキ。でも親が恋しくて一生懸命捜し、やっと同居できても相変わらず愛されず、必要とされませんでした。飛び出して放浪。おまわりさんに追いかけまわされていました。電話が切れた時、彼は、飛び出して捜し出し、抱きしめてやりたい気持ちだったというのです。しかし彼は言いました。「でもねえ、そんな子に実際に会ってみると、たいてい抱きしめてやるなんてとんでもない。憎らしくて可愛げのない奴なんだよなぁ」

 「私は誰からも必要とされていない、愛されていない」と孤独、絶望、虚無を抱えている何千何万、いいえ、何百万人の人がいます。そんな一人ひとりに真心から“あなたを命がけで愛し、一緒に歩いて新しい人生を送らせてくださる方がいる”と話すかわりに、私たちは、「あいつらが悪い」とレッテルをはり、かばってやる代わりに批判し、近づいて友だちになる代わりに遠ざけ、無視し、いじめるのです。彼らがいつの間にか、人々を拒絶し、攻撃的な態度をとり、可愛げのない姿をとるからです。
 でも考えてみると、私たちはみんな、神にそむいてエゴの道を歩む
可愛げのない反逆者・罪人だったんじゃないでしょうか。
にもかかわらず、神様は私たちを、一人ひとり大切なかけがえのない者と考えてくださり、一人ひとりのために、涙どころか血潮を流してくださったのです。

私は16歳の時、人を憎み神に逆らう典型的な可愛げのない少年でした。しかし、同級生のFくんが、友だちになって教会につれていってくれました。宣教師の先生が汗と涙で私をイエス・キリストのところへつれていってくれました。そのイエス・キリストの中に、私は永遠のいのちを見い出し、私も私の家族も新しくなったのです。
だから私はいじめ人の一人になるのがこわいのです。
やさしい親切な人になりたいのです。
○逃げ出す前に立ち止まって「この人は心が痛んでいるに違いない、この人に神様、あなたの愛を示せますように」と祈れる人となりたい。
○あの憎たらしい態度は上べだけ。愛だけが心を溶かすのだと考え、「私がわかってあげなくては」と自分を捧げる人になりたいのです。