私は「土の器」という聖書のことばが大好きです。作家の三浦綾子さんのエッセーにも『この土の器をも』という著書があります。また、日商岩井の元社長で、日本銀行総裁でもあった速水優さんも『土の器』という美しいエッセー集を出版しておられます。私はその本を速水さんから頂いて、一気に読んでしまった覚えがあります。この二人の有名人も「土の器」ということばが大好きだったのでしょう。
 聖書の中に、
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」
(コリント人への手紙第二 4章7節)

 私たちは泥をこねた土の器のようなものです。しかし、その中にこの宝、つまり神様、神様の愛、神様の愛の福音を入れさせていただくことができるのです。すると、測り知れない神様の業のひとかけらでもさせていただくことができる。なんと尊いことでしょう。私の材料は泥や粘土です。神様に拾い上げられ、恵みの火を通されて「土の器」になります。
 私は友人に誘われて、アメリカの大農場に行ったことがありました。炎天下でひと働きした後、友人が農地の傍らに転がしてある素焼きの、それこそ「土の器」の所に私を連れて行きました。中の水を一口飲みました。そこで私は、「命の水!」と叫んでしまいました。炎天下で冷たく冷えた水を飲んだからです。そのとき、「ああ、私もこんな土の器になって、渇いた人に、のどを潤す命の水を差し上げられるようになりたい」と思いました。
 ところが聖書の中で、ダビデはこう叫んでいるのです。「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました」(詩篇31篇12節)。土の器は壊れやすいものです。粉々に砕けた土の器に何の用がありましょうか。私たちは、「壊れた器」のようになると失望するのです。
 日本には、どんなに壊れていても、そのかけらをひとつひとつ接いで直す方法があります。金で接いだ古い陶器などを時々見かけます。神様の愛のみ手の中で、「壊れた土の器」も元どおり、いいえ、元以上に珍重される「土の器」となれるのです。
 聖書のことば、
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」
(コリント人への手紙第二 4章7節)