怪盗「また明日(あした)」

 月の光より忍びやかに人の心の中に忍び込み、人生にとってかけがえのない“機会(チャンス)”と“動機”を盗み出すプロの泥棒がいます。名前は、「ねずみ小僧」ならぬ、怪盗「また明日(あした)」というのです。
もうおわかりでしょう。彼は「明日に延期できることは延期させ、今日やるべきことを決して今日やらせない」という曲者。貴重な“動機”と“機会”だけを狙うプロです。彼が入ったあと心に残るものといえば、「言いわけ」「明日はやるさというあやふやな決心」「少々申しわけない、恥ずかしいという罪悪感」だけです。つまらないものだけ残して逃走していくのです。
 あなたも私も、この怪盗「また明日」の被害を受けたことがあるはずです。ところが、彼は、恐れられても憎まれてもいない、永年つきあってきた友人くらいに思う人すらいるのです。学生が宿題を一日延ばしにし、主婦が今すぐやるべき家事を延期し、今日書くべき手紙を・・・・・・。誰でもやることですし、あまり実害はないとタカを括っているのです。

 でも、怪盗「また明日」は、私たちにかけがえのない“動機”(燃える心、やる気)を奪い、またとない“機会”を盗むのです。聖書に出てくる
ローマ総督ペリクスはよい例です。彼は、彼のもとに囚人となっていたパウロの話を聞き、心打たれました。パウロの、神と人とに仕える愛、人生の平和と喜びを求めること、その話でよくわかったのです。そこで次は妻のドルシラも連れてきてパウロの話を聞いたのです。今度は前以上に、キリストの福音に心をゆり動かされました。信じたい、信じて罪ゆるされて新しい人になりたい、と思ったに違いありません。
 しかし、怪盗「また明日」がペリクスの心に忍び込み、「今でなくていいんだよ、また明日にしたら」そうやって、ペリクスの心から熱意も決意も奪い去って、彼からまたとない人生のチャンスを盗み取ったのです。
 私は16歳のとき、この機会にめぐりあいました。老婦人宣教師が、私を愛して永遠の命を与え人生を新しくしてくださるイエス・キリストを救い主として信じるようにすすめた時、私には「また明日」と答える理由がいくつもありました。
(1)まだ聖書も読んだことがありません。(2)教会は今日が初めてです。(3)家族の宗教は違います・・・。
しかし、人生でつかまえそこねた機会は、再びつかまえ得ないことが多いのです。「また明日」と言ってはならないのです。私は生まれて初めて聞いたイエス・キリストの福音を、生まれて初めて行った教会で、信じて受け入れました。そして、言葉に表現しつくせない祝福された人生に突入したのです。
「神の恵みをむだに受けないようにしてください・・・確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(コリント人への手紙第二 6:1〜2)