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きょうの「世の光」は、お便りをご紹介いたします。
兵庫県にお住まいのCさん、52歳のホームヘルパーをされているご婦人からです。
「きょうも放送を聞いて、つらかった当時を思い出して、涙が出ました。5年前、最愛の主人を亡くし、死ぬことばかり考えていましたが、この番組の、ためになるお話を聞き、勇気づけられ、一生懸命頑張りました。結婚してからずっと専業主婦だった私ですが、今は、ホームヘルパーとして元気に頑張っています。苦しい試練を乗り越えて、今は幸せです」。
さあ、きょうの約束のことばです。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(へブル人への手紙12章6節)。
病んでいる友人を見舞ったマルチン・ルターが、この聖書のことばを友人に読んで聞かせたとき、その友人は、「もしそうなら、神様に愛してもらわないほうがいいのではないか」と言ったそうです。
多くの人がこの友人と同じことを考えるかもしれませんね。「愛してくださっているのになぜ」、「この絶え間ない苦しみや痛みが続くリューマチになぜ」、「苦しくつらく、悲しい癌になぜ」と思ってしまいます。
しかし、神は言われます。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ人への手紙8章28節)。
神様の愛は、いつも、そしていつまでも働いているのです。
サムエル・ルザフォードは言います。「神様が別な方法で導かれたら、私にはこの栄光の冠は見えなかったに違いない」。神様の懲らしめは、神様の真実さ、神様の祝福の反面なのです。神様の祝福では、「十字架を負うこと」と「冠を頂くこと」は、一緒なのです。神様の恵みと、神様の懲らしめとは、一対なのです。神様は私たちを贖い、またきよめてくださるのです。そして、神様は、永遠の死から救い出すために私たちを懲らしめるのです。
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