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「みじめになりたければ比較せよ」と、ある人はいいました。比較することは馬鹿らしいことなのです。
聖書の中でも、伝道者パウロは「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」(コリント人への手紙第二10:12)と言っています。しかし、人と比較するのは、私たちの生まれつきの癖といっていいほど、私たちは無意識のうちに比べてしまいます。
比較には二つのパターンがあります。
第一には、自分と他人を比較することです。その結果は、たいてい、二つに一つです。
(1)自分のほうが相手より強い、賢い、力がある、偉い、などと感じると、高慢になって人を見下す。鼻もちならない態度です。
(2)自分のほうが弱い、劣っていると思うと、恐れたり、劣等感を持ってしまう。明るかった自分が暗くなり、自分が分からなくなったり、自分でない自分を作り出そうとします。セルフイメージが低下するのです。
第二のパターンは何でしょうか。私たちはすぐ他人と他人を比較する。不公平で罪深いことだと思います。
よく大人が、子供と子供を比較します。「お姉ちゃんはいつも5を取ってくるのに……。一生懸命やらないからよ」「お隣のAくん、あんたより小さいのにどんどん泳げるし、お返事だってハキハキしてるでしょう。あんたはどうして…」不用意な比較の言葉が子供をいじけさせ、反抗的にさせます。
また、大人と大人を比較します。先生と先生、奥さんと奥さん、ご主人とご主人、家庭、サラリー、容貌、学歴…なんでもかんでも比較して、話の肴にします。もう結果は言わずもがな。人の心を傷つけ、人間関係を壊します。
では、どうしたらよいのでしょう。三つのことを申し上げたい。
第一に、神さまは一人一人を、測り知れない愛と知恵と目的のもとに、それぞれ違ってお造りになりました。違っているからこそ面白く、美しく、補いあって完全となるのです。
第二に、神さまは、赤ちゃんもお年寄りも、障害者も病人も、弱いもの小さいもの一人一人を愛し、大切にしていてくださいます。この神の愛がわかると、人生は変わります。
第三に、神さまは、イエス・キリストの十字架の血潮によって、一人一人を、別の持ち場・立場・持ち味のまま、罪を赦し、罪をきよめて、神のご栄光をあらわす器、傑作として作り上げてくださるのです。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ43:7)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました」(第二コリント5:17)
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