心が衰え果てるとき

   私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほどの高い岩の上に、私を導いてください。(詩篇61:2)

 心さえしっかりしていれば、相当な苦難や試練にも耐え忍びます。
私の先輩、後藤光三先生は、亡くなる最後の瞬間まで、全身のひどい痛み、病苦にさいなまれました。それなのに、彼の書いた「闘病」の中にはユーモアとペーソスが満ち、彼が見事に病苦に勝利しておられたことが明らかです。
 でも、
「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心に誰が耐えるだろうか」(箴言18:14)
「心がひしがれ」「心が衰え果てる時」、私たちはどうしようもなくなるのです。

 王ダビデも心の衰え果てる経験をしました。最愛のわが子にそむかれ、王位を奪われ、命までねらわれて、真夜中、はだしでマントをすっぽりかぶり、泣きながら川を渡って逃げたとき、まさに彼の心は衰え果てたのです。彼は衰え果てた心を「地の果ての心」と表現しました。神が最も遠く思われ、友も一人もなく、何ひとつ助けもない心です。
 しかしそんな時、王ダビデは、地の果てから叫び求めたのです。ダビデの呼び求める祈りのことばをくり返し読んで私は、ようく分かるのです。
(1)自分の力ではどうにもならない、心が衰え果てる時が私たちにはある。
(2)そんな人間の無力・無能力の時こそ、全能の神が働きたもう時、神のチャンス、神の出番である。
(3)神はそんな時、人の心に神への祈りを与えてくださり、自らその祈りにこたえてくださるのです。

 心の「地の果て」は、実は、最も天(神)に近い所なのです。
私は、私自身をも含めて、地の果てで神を見い出し、素晴らしいゆるがない人生の基盤を見い出した方々をたくさん知っているのです。
心が衰え果てたとき、王ダビデのように、まだ見えないかもしれませんが、神の方向に顔を向けて心の果てから呼び求めてごらんなさい。あなたも多くの聖徒たちと共に、こう歌うようになるでしょう。
 わが身ののぞみは ただ主にかかれり   
 主イエスのほかには 頼(よ)るべき方なし
 わが君イエスこそ 救いの岩なれ 救いの岩なれ (賛美歌より)