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「羽鳥さん。あんた、孫悟空みたいな牧師だね」と言われて、ギョッとしました。おっちょこちょいで自信過剰ってことかと…。他人のことは、すぱっと言えるし案外それが当たってることもありましょう。ところが、自分のこととなると、わからなくなることがありませんか。
聖書の中に「私はいったい何者でしょう」と神に質問した人がいます。有名なモーセがその人です。奴隷の民ユダヤ人の赤ん坊として生まれ、パロ王の命令で殺される運命にありながら、葦舟に隠してナイル河に流されたので、パロ王の娘に拾い上げられ、エジプトの王子として育てられたモーセ。青年となり、パロ王に嫌われて奴隷とされ、塗炭の苦しみをなめているユダヤ人こそ自分の民だと知り、王宮の栄華を捨ててユダヤ人を救うために立ち上がった時、同族は彼のことを国民的英雄と仰ぎました。
しかし、エジプト人をなぐり殺して土に埋めたことが他人にわかった時、彼は恐れて逃げ出し、荒野で羊飼いに身を落として隠れました。彼は自分が、自分の身をかばう弱虫のエゴイストに違いないと感じました。
ところが、羊を飼ってさまよっていた時、神は燃える柴の中から、モーセに語られたのです。「お前はエジプトに下ってパロの手から同族の民イスラエルを救い出し、乳と蜜の流れるカナンの地に導き出すのだ。」「私は口下手です。弱虫です。それにエゴイストです」と、モーセは神に申し上げました。
神は、そんなことは百も承知です。もし自分が「富んでいる、豊かになった」と高慢に思っていても、神は私たちが「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」であることをご存じです。(ヨハネの黙示録3:17)しかし、神は、私たち自身が知らない、もう一人の私をご存じなのです。
創造主であり、私たちを愛し期待しておられる神は、イエス・キリストの十字架の血潮で、私たちのすべての罪を赦しきよめ、神の栄光のために、私たちを新しく造り変えることができます。神の前にへりくだって神にまったく従う時、神は石ころから冠をつくることができるのです。他人があなたのことをどう見ようと、あなた自身がどんなに小さく卑しく罪深いと思っても、神にはもう一つのあなたのイメージがあるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二5:17)
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ人への手紙2:10)
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