愛の姿(1)

 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを購い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:8-9)
 すばらしい言葉ではありませんか。神さまがさばき主でなく、救い主となってくださる愛の姿が、くっきりと描き出されていると思うのです。
 まず神さまは、私たちと一緒にいつも苦しんでくださるというのです。

 私の友人で、ある仕事に失敗し、それこそぺちゃんこになって家に帰ってきた時、「あなたのやり方じゃ、こうなるのが当たり前よ」と奥さんからこてんぱんにやられたと、男泣きに泣いて訴えた人がいました。
 しかし、イエスさまは違うのです。 姦淫の現場を取り押さえられ、パリサイ人(宗教家層)たちに引っ立てられて、イエスさまの前に引き据えられた哀れな女の屈辱、絶望。パリサイ人は彼女の心の苦しみなど理解しようともせず、その彼女を利用してイエスさまをわなにかけようとしました。 「先生。律法によると、姦淫の者は石で打ち殺せとありますが、先生ならこの女をどうしますか。」 石で打ち殺せと言っても、見のがしてやりなさいと言っても、どっちにころんでもイエスさまを攻撃しようという魂胆です。眼の前に泣き伏す女の気持ちなど屁とも思っていないのです。
 ところがイエスさまは、女の横に腰を落とし、じっと地面を見つめ、無言でした。長い間、無言のままです。
 女の苦しみの原因は、みんな彼女自身の罪にありました。しかし、イエスさまはひとこともその事を責めず、そのことについて説教せず、ただじっとうつむいて、彼女と一緒に苦しまれたのです。
 やかまして叫びたてるパリサイ人たちに、「あなたがたの中で罪のないものがいたら、この女に石を投げなさい」やっとそれだけ言われて、またうつむいて地面に字を書き始められました。
 パリサイ人が一人こそこそ、二人こそこそ、みんな逃げ去った時、やっと顔を上げられたイエスさまは、女に、優しく赦しの言葉をかけられたのです。
 ほんものの愛は、一緒に悩み、一緒に苦しみ、一緒に泣くのです。