愛の姿(2)

 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを購い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:8-9)

 あがなってくださる

 「あがなう」ことは愛の結晶です。旧約聖書の中に六十回も出てくるこの言葉は、もともと、お金を払って買い戻すという意味で、土地や奴隷について使われました。
 ウォーターハウ市で実際におきた事ですが、大学時代からの大の親友が、一方は裁判長として裁く立場、一方は被告として裁かれる立場に立たされたのです。裁判長は正しく裁かなければなりません。法律に定められた通り、きびしく判決をくだしました。
 しかし、彼は裁判官の帽子とガウンをかなぐり捨てて、うなだれて退廷してゆく被告の親友の所にかけてゆきました。「君、せめて僕に君の罰金を支払わせてくれ。」 裁判長は、事実、自ら破産して、親友の罰金を全部支払ったというのです。
 愛は、哲学でも詩でもないのです。ほんものの愛は、犠牲の血を流すことです。ペテロは申しました。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見い出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一・2:22〜24)
 イエスさまの十字架を見上げると、私はただ涙を流すだけです。

 背負い、抱いてくださる

 “おんぶにだっこ”という言葉がありますね。神さまが私たちをおんぶし、だっこしてくださる。大人がおんぶされたり、だっこされたりじゃ、ちょっと格好がつきません。私たちは、おんぶもだっこもされたくない気持ちもありましょう。
 しかし、全知全能の神さまの前に立つ時、神さまがいらないほど一本立ちできる人が一人でもいるでしょうか。私たちが成長すればするほど、私たちは神さまの優しい手、力強い助け、励ましの言葉の必要をもっともっと感じるようになるのではないでしょうか。
 イエスさまも、“幼児のようにならなければ”と言われました。
 背負い、抱いてくださる、いつになっても、そうしてくださるという神さまの愛の温かさを、私は今日もひしひしと感じているのです。