|
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8:32)
150年前、私たちには自由がありませんでした。信教の自由、結社の自由、旅行や結婚の自由すら認められていませんでした。私の祖父、羽鳥権平は、高崎五万石騒動という百姓一揆の指導者だったのですが、殿様に税金をまけてくれという自由がなかったので、生命がけでかけ合って、あやうく殺されかけました。
その頃から比べると、私たちは政治的、社会的、経済的にまったく自由になりました。
しかし、どうでしょうか。人間の魂は相変わらず自由を求め、解放を求めていませんか。私たちは、いまだに人々を愛する自由、分け与える自由、赦す自由を持っていないのです。小さな罪の誘惑からすら人間は逃げることもできず、むさぼりや色欲や食欲の奴隷です。エゴイズムそして罪の奴隷です。
|
使徒パウロは私たちを代表するかのようにこう叫びました。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。…私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:19、24)
しかしイエスさまは言われました。「真理はあなたがたを自由にします」そんな真理とは何なのでしょうか。
<自由とは>
これを聞いたユダヤ人たちは「何を言うか、私たちは生まれながら自由人だ、人の奴隷になったことはない」と抗議しました。このユダヤ人たちの態度の中に、現代でも多くの人々が持っている自由観が代表されていると思うんですが、いかがでしょうか。
イエスさまは抗議したユダヤ人たちにこう言われました。「罪を犯す者はみは、罪の奴隷です。」何という痛烈な言葉でしょう。
|
人間は何の拘束もなく放り出されても決して自由じゃないのです。ホプキンス博士は本の中で、「魚は魚自身で自由ではない。魚は水の中にあってはじめて自由だ。それと同じように、人間は、人間一人ぽっちで自由ではないのだ、神のいのちの真理という水の中にあってはじめて自由なのだ」と書きました。
そうですね。魚が言ったとします。「私は自由だ。毎日毎日水の中なんてまっぴらだ。私も人間のように土の上を歩く権利がある。」そして土の上にピョンと跳び出ます。しばらくするとエラが乾いてパクパク…そして死んでしまうでしょう。
機関車は機関車そのもので力強く自由なのではない。レールの上で力強く自由です。イエスさまが「真理が自由にする」と言われたのも同じことなのです。
|