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「福音のエッセンス」
聖書は昔、破かれたり没収されたり、散々な迫害をうけたことがありました。それでも壁の中に塗り込めたり、壷に入れて、土に埋めたり、何千年もの間、一行一字も損なわれず今日に至っています。不思議な書物です。
しかし、他のどこが滅ぼされても、この言葉が残っていれば聖書の福音は復元できるとさえ言われてきた「福音のエッセンス」とも言うべき言葉があります。
第一は、ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
第二は、ヨハネの手紙第一3章16節「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」これは、イエス・キリストは、私たちを極みまで愛し、私たちを救うために「いのちがけ」だった、というだけではないのです。
何年か前、仙台に行っているとき、忘れられない出来事が起こりました。橋の上を歩いていた子どもを、後ろからついてきた精神病の男性が、いきなりつかまえて橋の上から川に投げ込んだのです。高い所です。下は満々と水をたたえた所でも何でもない岩だらけの所でした。ところが、通りかかった青年が、とっさに間に橋の上から飛び降り、その子を助けたのです。その子は奇跡的に助けられたのです。この青年は、まさにいのちがけでした。彼の愛と勇気は言葉に表せないほどすばらしいものです。
このことを知った私は、すぐイエス・キリストの十字架のことを思いました。イエス・キリストは、天から、神であるポジションから、人となって罪の世にダイビングされ、ベツレヘムの家畜小屋に生まれたその時から、いのちがけどころか、いのちを捨てに来られたのです。故郷ナザレでの30年の歩みも、それから十字架に至る3年半の生涯も、この観点から読み返してみると、「いのちを捨てられた生涯」であったとしみじみわかるのです。
イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちを死と滅びから救うため、私たちの罪の身がわりとなって神に裁かれ、神に捨てられて、実際にご自身のいのちを捨てられました。そのことによって、私たちは永遠に救われたのです。
聖書の言葉「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるのです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一2章42節)
(羽鳥 明)
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