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私たちは日常生活でも、交流を深めようとすると、食事でも一緒にしようかということになりますね。
イエスさまと食卓を囲む祝福、その楽しさ、その嬉しさはすばらしいものです。エルサレムに最後の入城をなさったイエス・キリストは、晩になるとベタニヤに行かれました。そこで愛するマリヤ、マルタ、ラザロの兄弟姉妹と食卓を囲まれました。その内容はわかりません。しかし、覗いてみたいようですね。
十字架を前にした弟子たちとイエスさまの最後の晩餐の時の様子は、唯一、ヨハネの福音書に書かれています。十字架を前にした緊迫感の中にも、イエスさまはしみじみと天国を語り、愛と平和を祈りました。そして、イエスさまは食卓から立ち上がり、弟子たちひとりひとりの足をお洗いになられました。生涯忘れることのできないことでした。
イエスさまの食卓に同席した人は言いました。「神の国で食事をする人は幸いです。」イエスさまは、よく天国の食卓のたとえ話をされました。世の中の祝宴が見栄を張り、見返りを求めるおぞましいものであることを批判なさいました。それに対して、天国の祝宴は、貧しい人、体の不自由な人々も招かれていました。誰でも神を求め、永遠を求める人々は招かれています。プライドの高い人々は、「結婚したから」「畑を買ったから」「牛を試すから」と、言い訳にならない理由で天国の祝宴の招待をすっぽかします。
ヨハネの黙示録の中で記された、イエスさまからラオデキヤの教会に宛てられた手紙の中で、イエスさまご自身が、こう書いておられます。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録3:20)
ロンドンの聖パウロ寺院に、ハントという画家が描いたこの情景の絵があります。茨の冠を頭に乗せ、手に灯りを持ったイエスさまが、もう何年も開かれたことのない扉の前に立って、ノックしています。よく見ると、その戸には外側には把手がありません。これは、人の心の象徴です。人の心は、内側からだけ開けられます。心から求めて心の扉を開くなら、イエス・キリストが心の中に入って、神と人との永遠の喜びの交わりが始まるのです。
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