今から何十年も昔のことですが、私は、福島県の山の中で、先輩を助けて農村聖書学校の働きに携わっていました。朝早く起きて祈り、午前中いっぱい聖書を学び、そして午後は自給自足の農業生活をしていました。丘の下の田んぼは、腰まで泥の中に沈むヂク田でした。その田に入ると、わんさかと蛭が血を吸いに太ももに吸いつきます。はたき落としていたのですが、ふと聖書の中で、ソロモン王という賢者が言っている言葉を思い起こしました。
「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ』と言わない」(箴言30:15)

 私は、蛭はどれだけ血を吸えば満足するのか様子を見てみようと、血を吸うに任せてみてみました。なんと蛭は、パンパンに膨れて、ポンと音を立てて破裂して自滅するまで吸い続けていました。
 世界は相変わらず、戦争、テロ、難民、飢餓でいっぱいです。それなのに私たち人間は、愛とか、平和とか、本当の生き方を追求せずに、「モノ、モノ、モノ。金、金、金」の飽くことなき物欲追求を続けているのです。まさに蛭です。満ち足りることを知らず、破裂して自滅するのです。
 ところが、聖書の中でパウロという人は、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ人への手紙4:12)と言っています。すごいではありませんか。
 虫がつき、さびがつき、盗人が盗む地上に宝を積むことの愚かさを、パウロはわきまえているのです。地上の富ではなく、天上に富を積むのです。愛と平和と真理の中に、神の栄光を追い求めるのです。
 パウロには、神を求めるものに、神が永遠の満足を与えてくださるという確信がありました。また、地上のどのような生活の中にも、神が純粋な命を与え、人生をやり抜かせてくださると知っていたのです。
 彼は、なおこのように言います。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)。また、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)