お互いが抱く価値観ということを考えてみましょう。例えば、重度の障害や病気を負っている人々、あるいは老齢で何も貢献できず、厄介ばかりかける人々は、存在価値のない人々だと言ってよいのでしょうか。また、自分勝手で罪と汚れの中に生き、社会に一方的に迷惑をかけている人々もまた、存在する必要がないと言えるでしょうか。
 もしかすると、自分自身「私なんか生きる価値がない」と思いこんで、絶望のふちに立っている人がいるのではないでしょうか。
 私も16才の時、そんな絶望のふちから、神様の恵みと真によって引き上げられて以来、新しい人生を歩みはじめ、現在に至っている者のひとりです。そんな私を含めて、私自身の見聞きしてきたことのほんの一部をあかししましょう。
 M・Tさん。全身の筋肉が徐々に骨に変わってしまう病いにかかった人でした。お見舞いに行った時は、その体は丸太ん棒のようになっていました。私が来たということで、記念写真を撮ることになりました。ニコニコしているTさんを、みんなで担いで庭に出ました。Tさんの周りに私たちが並んでパチッ。みんなニコニコ笑っている写真でした。忘れることができません。「神様ありがとう。みなさんありがとう」の言葉と笑顔だけで、家中を明るくし、平和にして天に帰りました。
 M・Sさん。50年も重度の小児まひで寝たきりでした。私がお見舞いにいった日のことでした。Mさんのおじいさんは、羽織はかまで正座をしながら、お母さんと一緒に私を迎えてくれました。お二人は声をそろえて言いました。「Mのようになれるなら私もなりたい」。その日、おじいさんとお母さんは、神様の愛を信じ、それからお父さんも兄弟も、次々と神様を信じ、全家族が喜びに変わっていきました。
 P・Pさん。少年時代、強盗や殺人を犯した手のつけられない非行少年が、優しい奥さんとともに世界を駆け巡る優しい伝道者になっています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)と言われ、すべてをお見通しの神様は、み子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストと弟子たちのやりとりです。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか』。イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです』」(ヨハネの福音書9:1-3)。