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便利ではあるけれど始末に困るものに、プラスチックがあります。さびない、腐らない、虫も食わない、燃えにくい、しかし燃やすとダイオキシンが…ということになって、役に立っているうちはよいが、無用になったとたんに処分にハタと行き詰まるというわけです。海に捨てたビニール袋が何年たっても消滅しないで、海の生き物に大きな影響を与えるということも言われています。
高貴で有益な存在であってこそ不朽も望ましいのですが、醜悪、無益、有害なものが不朽ではたまりません。秦の始皇帝といえば、不老不死の仙薬を求めたことで有名ですが、彼はまた、悪名高い専制君主でもあったようです。ご本人は天下がことごとく意のままになるのですから、いつまでも生きたかったでしょうが、人民はこんな皇帝に不死になられたのではやり切れません。仙薬探しは失敗しましたが、たとえあったとしても、家来たちはこんな暴君にいつまでも生きられてはたまらないので、「なかった」と報告したかもしれません。
人間には誰にも生きる権利があり、そして少しでも長く生きたいという願望があります。しかしそれとともに、人々からあの人にはいつまでも生きていてほしいと思われるような生き方をする責任もあるだろうと思うのです。この責任には気がつかないで、権利ばかりを振り回して長く生きたいと願うのでは、不老長寿もとんだ悲劇になりかねません。
医学の進歩、平和な社会は、今日のような高齢化社会を出現させました。お年寄りが増えれば、文句なくおめでたいはずなのに、問題はそう簡単ではないようです。人生、ただ物が豊かで長生きできればいいというだけではなく、人間はもっと、質的に豊かな世界で生きたいと願っているのではないでしょうか。
聖書で言う「永遠のいのち」というのは、単に人生の量的な、時間的な延長のことではありません。ねたんだり、恨んだり、また憎まれたり、嫌われたり、欲に引きずられたり、誘惑に負けたりの情けない人生をただ引き延ばすだけでしたら、永遠のいのちも魅力がないではありませんか。
神様のくださる永遠のいのちとは、単なる量的な、時間的な延長を意味するのではなく、人生の質的ないのちなのです。神はそのひとり子を世に送り、私たちの罪の身代わりとして十字架につけることによって、私たちの罪を赦して、罪から救い、滅びるほかない無益有害な生き方から、新しい生き方へと生まれ変わらせてくださる、これこそ聖書の言う永遠のいのちの内容で、それが信じる者すべてに与えられるというのが聖書の約束なのです。
(ヨハネの福音書3章16節)
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