無から有を生む神

  ある国に欲ばりの肉屋さんがいました。そこに一人の賢い婦人が夕暮れ時ニワトリを買いに来ました。肉屋さんの冷蔵庫にはニワトリが一羽しか残っていませんでした。そのご婦人が言いました。「これ、いくらですの」「はい、お安くしといて3ドルです」「もう少し大きめの無いかしら」肉屋さんは、そのニワトリを冷蔵庫に入れるふりをして、同じそのニワトリを出して「はい、これは4ドルですが」。するとそのご婦人、「じゃ、前のと二つちょうだい」。
無いソデは振れぬと言いますが、この欲ばりの肉屋さん、さぞ困ったことでしょう。何事につけても、無いのにあるふりをしたりすると、あとで行き詰まることになりそうです。
 ところで、聖書の一番最後の書「ヨハネの黙示録」で、イエス・キリストがある教会にあててこう言っておられるところがあります。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録3:17)
なにか、現代の私たちのことを言われているような気がしないでしょうか。病気でも、相当進んでいながら自覚症状がないというのはとても危険なことであるように、自分の心の状態のみじめさがわからないでいることほど、みじめなことはないだろうと思います。
 私たちが、自分自身を、教養があるつもり、人格者のつもり、社会的な地位があるつもりでいても、実は、愛のない、清さのない、善を行なう力のない弱い自分、良いものはまさにゼロであると認めることは、たしかに勇気を必要とします。しかし、伝道者パウロに
「私(キリスト)の力は弱さのうちに完全に現れる」のだと語りかけられたように、偉大な神の力と恵みとは、その弱さの意識の中にこそ、体験することができるということなのです。
 聖書でいうまことの神は
「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)です。何も無いところから万物を創造された神です。ですから、死人をも生かすことができますし、罪人を義人につくりかえることがおできになり、罪以外に、なんの善もないゼロの状態の私たちの中にも、愛、喜び、清さなどを生み出してくださる神なのです。そのためにこそ、イエス・キリストは十字架において罪の始末をしてくださったのですし、新しいいのちの誕生の証として、神はイエス・キリストを甦らせたのです。