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外国人の見た日本人論に“「縮み」志向の日本人”というのがあり、大変興味深く思いました。たとえば盆栽は、自然に伸びようとするものをあっち切りこっち切りというようにして縮め、そのこじんまりとした精緻な枝ぶりを観賞するわけですから、木にはちょっと気の毒という感じがしないでもありません。庭も日本人は好きですが、これも自然の景観を縮小したものでしょうし、箱庭などはその最たるものと言えましょう。
言葉でも縮めてしまうのは得意で、ロスアンゼルスをロス、エンジン・ストップはエンスト、パーソナル・コンピュータはパソコン、挨拶なども「どうも」で間に合わせてしまう、といった具合です。暖房にしてみても、部屋全体を暖めるペチカやオンドルとは違って、火鉢やこたつからは、どうしても背中をまるめてうずくまってる姿しか思い浮かばないはずです。
それは宗教的な面にも見られるような気がします。神を神社やほこら、あるいは神輿の中に閉じこめただけでなく、それぞれ自分の家の中にまで引き込んでしまいました。それが神棚であり、仏壇であると見ることができましょう。つまり神仏までが縮められてしまっているのです。
これらは、単に日本の文化の特性だと言ってしまえばそれまでですが、そうした「縮み」志向が私たちの考え方をとかく内向きなものにし、時に自己中心的な閉鎖性を生み、持っている可能性までをも閉じこめる傾向につながるとしたら、それは問題だろうと思うのですが、どうでしょうか。
かつてイエス・キリストは、手が縮こまったままでいる人に向かって 「さあ、あなたの手をのばしなさい」(マルコ3:5)と言われました。この人は、いやしてもらってから手を伸ばしたのではありません。ただイエスが命ぜられたから、そのとおりに伸ばしてみたら伸びるようになったということなのです。主はこのようにして、私たちの「心の縮み」をもいやしてくださいます。
私たちはまず天に手をあげる、つまり神に対して祈りの手を高くあげ、神の言葉をしっかりと握ることです。また、隣の人と手を結び、力を合わせるために、積極的に自分の方から手を伸ばすべきです。そうすれば新しい関係が生じてくるはずです。さらに、手を伸ばすことは、私たちの才能、可能性を伸ばすということにもつながるだろうと思います。ダメだとばかり思いこんでいないで、手を神と人とに伸ばしてみましょう。
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