イエス・キリストの教えの中には、常識から考えると「おや?」と思えるようなものもあります。例えば、「悲しむ者は幸いです」ということばもそのひとつでしょう。
 これは、決して強がりやあまのじゃく的な言い方をしているわけではありません。または、悲しみ軽視しているわけでもありません。イエス様は悲しむ者の気持ちを誰よりもよく理解できるお方なのです。なぜならば、イエス様は「悲しみの人」とさえ言われるほどに深い悲しみを経験されたお方だからです。イエス様が悲しんで涙を流されたということが聖書には何回か記されています。十字架を前にしたゲッセマネという所での祈りのときには、「悲しみのあまり死ぬほどです」というほどの悲しみを通過されたのです。ですから、悲しみというものがどのようなものであるかをよくご存じでありながら、あえて、「悲しむ者は幸いです」と言われたのです。
ここでひとつの詩を紹介しましょう。「病まなければささげ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ聞き得ないみことばがある。病まなければ仰ぎ得ないみ顔がある。おお、病まなければ私は人間でさえもあり得ない」。
 私は、この「病まなければ」というところに、「悲しまなければ」という言葉を当てはめてもよいのではないかと思うのです。この作者は、「おお、病まなければ私は人間でさえもあり得ない」と言っています。人間は誰でも悲しみを経験するものですから、もしも、悲しみを通過したことがないとしたら、まさにその人は、「人間でさえあり得ない」ということになるのかもしれません。
 誰でも悲しみなど歓迎したくはありません。しかし、悲しみを通してしか得られない、人間にとって大事なものがあるはずなのです。イエス様は、
「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言われました。
 聖書で言う「慰め」ということばは、特に旧約聖書では「救い」と同義語で使われています。ここで言う悲しみというのは、自分自身を正直に見つめ、そこに見いだす自分の罪の深さ、わがままさ、愛のない冷たさなどのゆえに「悲しむ者は幸いだ」という意味なのです。そして、自分自身の貧しさ、どうにもならない罪深さに本当に悲しむ者、その人にこそ本当の慰め、すなわち救いがあるということなのです。ですから、「悲しむ者は幸いだ」ということになるのです。