「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン」---聞き慣れないこの言葉、何のまじないだろうと思われるかもしれません。これは聖書の中のある話に出てくる言葉です。
 キリストが生まれる五百年ほど前、当時の古代世界で最強を誇っていたバビロン帝国に、ベルシャツァルという王がいました。彼は自分の力を誇示するために、大臣たちなど一千人もの人々を集めて大パーティを開いたのです。すると突然、人間の手の指が現れて、宮殿の白壁に字が書かれました。それがこのおまじないのような言葉、メネ・メネ・テケル・ウ・パルシンだったのです。この薄気味悪い出来事に、王の酔いもすっかりさめて顔面は蒼白、腰の関節がゆるんで、ひざがガタガタ震えたと記されています。
 この意味を解き明かしたのが預言者ダニエルですが、それによるとこうです。メネというのは数えられているという意味で、それがメネ・メネと繰り返されていることは強調を表し、つまり「あなたの余命はいくばくもない、もうすでに秒読みに入っている」ということなのです。事実、この傍若無人にふるまっていたベルシャツァルは、その夜のうちに世を去ってしまいました。テケルは量られているという意味で、「お前は自分を相当高く評価してうぬぼれているようだが、神の量りによれば基準をはるかに下回っていることを知らないのか」ということ。ウ・パルシンは、分かたれるというもので、バビロンの国が二つに分裂することの予告。彼の死後、やはりその通りになりました。
 すべて初めがあったものには終わりがやってきます。私たちの命にも初めがあり、終わりがきます。この世にも終わりがくると聖書は告げます。もしかしたら、私たちの命も、この世も、終わりに向かって秒読みに入っているのかもしれません。これはいわゆる不吉な言い方なのかもしれませんが、私たちはこの現実を忘れてはいけないのだと思うのです。
 また、私たちが神の量りにかけられたとしたらどうでしょう。自分が正しいとか、何でも自分でできるとかと、うぬぼれているほど、神の前には軽く見積もられているのかもしれません。
 ベルシャツァルはそのことをわきまえずに、おごり高ぶっていたため、神の裁きにあってしまったのですが、私たちはどうでしょう。神の計量にパスできるでしょうか。言うまでもなく、私たちは誰ひとり、神の基準に達するはずがありません。だからこそ私たちには、キリストの十字架による罪の赦しと信仰によって与えられる義という福音が必要なのです。